目次
仏像
聖観世音菩薩像
明治二十年 松本喜三郎師が謹作して来迎院に寄進
ここに奉讃する聖観世音菩薩像は、明治二十年に松本喜三郎師が謹作して寄進にかかるものである。
師は文政八年二月、熊本市井手ノロ町(現在の迎町)出生の人にして、専ら写実をねらう活人形の作家として前人未到の妙境に入り、また、仏師としても優に一世に卓抜した手腕家であった。嘉永年間から明治の中葉に及び京阪や江戸、次いで東京への桧舞台に於いて活人形元祖松本喜三郎の名声は遍く喧伝(けんでん)せられ、就中(なかんずく)、崇佛家たる師が佛恩報謝の熱願を起し、苦心製作十年の星霜を積んで完成した西国三十三所観世音霊験記の人形揃いは、師が生涯の大傑作として東京浅草をはじめ全国主要都市に披露せられ満天下の絶賛を浴びた。
師は明治十一年に東京を引き払い、西国を巡業して明治十五年に故山熊本に帰来し、念仏と製作とに日を送っていたが、かねて万日山の景勝に目をつけ、この山に三十三の小観音堂を辻々にたてて西国写しの霊場を開きたい発願を以って種々運動に手を尽くしたが、支障あって遂に実現しなかった。
然るに、師も追々老境の寂寞を感ずるままに、先に東京退去の際、霊験記終番の谷汲観音の熊本下向となり、師が墳墓の地ときめた本山町の津国寺にこれを安置するに至ったが、偶々(たまたま)当山来迎院第四十五世住職、永野隆光上人が俗縁の関係によって、前々から頻りに谷汲視者を懇望していたので、師はその代替として、特に尾州桧の角材を択ぴ、晩年最終の佛彫に一刀三礼を以って聖観世音の尊顔を刻み、胸腹は活人形の手法に準じて提灯胴とし、手ずから裁縫した服飾を施して、これを当山に謹納安置されて今日に及んだ次第であるが、当年、師の胸裏、恐らくは万日山霊場の失意をこの挙(おこない)によって代償するめ意向ありしかに察せらる。
師は明治二十四年四月三十日、米屋町の寓居に於いて六十七年の多彩な生涯を終えた。
嘗(かつ)て、当山来訪の人に、当代随一の風俗人形作家・平田郷陽、風俗人形協会会長・山田徳兵衛両師は、この尊容を拝して、師を「鎌倉時代の名工にも劣らざる稀世の仏師なり」と三嘆(さんたん)時を久しうせることがあった。
尊像を仰ぎ拝すれば神秘端厳(たんげん)の妙相赫奕(かくえき)として一段の精彩を加う。
希くば光明遍照慈眼十方の衆生を視(みつめ)て明鍳(みょうかん)を垂れ給わんことを。併せて尊像の施主松本喜三郎師の芳魂安らかならんことを祈念し奉る。(故・大木透氏の由来紀より)
本尊 阿弥陀如来像
本像は当山の本尊として、両脇に観音・勢至菩薩を従えた阿弥陀三尊の形でまつられている。浄土宗では阿弥陀三尊を配するのが一般的である。
観音・勢至菩薩は江戸時代の作であるが、本尊は熊本市史編纂のための調査で、中世・鎌倉時代の作であることが確認された。
木像は桧材の寄木造りで、頭部と体部はそれぞれ前後二対をはぎ合わせ、両肩は別材とする。顔はやや下膨れであるが、抑揚のある目を持ち、ふくよかな彫りを
見せる衣文の表現、厚みのある体躯の表現など、鎌倉時代の特徴を備えている。
しかし、肉髪の高さが低く、髪際線も中央がやや下がっていることから判断して、鎌倉時代も後期の作と考えられる。
-
行基菩薩坐像
全長45cm
-
善導大師坐像
全長60cm
-
法然上人坐像
全長60cm
-
勢至菩薩立像
64cm
-
観世音菩薩立像
64cm
-
法然上人立像
全長66cm
-
善導大師立像
全長66cm
-
閻魔坐像
天保4年(1833)作 寄木造 像高 93cm