観音祭と紙芝居朗読劇
2017.10.15 お知らせ
10月18日(水)は「観音祭」です。
当日は11時より
朗読劇団「ほとけの座」公演を開催。
演目:紙芝居朗読劇「天才生き人形師 喜三郎開眼」
作: 正田 吉男
画: 和田 正隆
朗読:勝 敏彦(朗読家・元NHKアナウンサー)
矢部 絹子(朗読家・元TKUアナウンサー)
年中最後の行事となります。
どうぞお誘い合わせの上ご参加ください🙏
松本喜三郎とは
喜三郎は文政8年(1825)、熊本の井手ノ口町(現在の熊本市中央区迎町)で生まれ、
幼い頃から手先が器用だった喜三郎は、14~15歳で職人町の鞘師(刀の鞘を作る職人)に弟子入りし、
塗りや錺りの技術を習得したという。 また、細川家のお抱え絵師であった矢野良敬の元で画力を磨き、
少しずつ生人形師としての基礎を築いていった。
その頃町で盛んだったのが、地蔵祭で登場する造り物。
中でも長六橋以南の迎町(現在の熊本市中央区迎町)と井出ノ口町は造り物の本場と言われ、
喜三郎も井出ノ口町で大いに腕を振るっていた。
喜三郎が22歳の頃、近所のお秋という人物をモデルにして本人そっくりに人形を造り上げた。
爪の長さまで測ったというこの人形が生人形の始まりだと言われており、
代継宮(当時は熊本市花畑町、現在は熊本市北区龍田)の春祭りで、
お秋本人と造った人形が並んで登場した時にはあまりにも瓜二つで誰もが度肝を抜いたという。
自分の腕を都会で試したいと考えた喜三郎は、24歳の時に熊本に妻子を残し大坂へ上る。
到着した頃には無一文になった為、蝶型のかんざしを作って売りに出したところ、
たちまち評判を呼び飛ぶように売れて喜三郎の懐は瞬く間に膨らんだ。
滞在の足掛かりとなる資金もでき生人形を造る機会を待ち望んだ数年後、
ついに安政元年(1854)、大坂難波新地で「鎮西八郎嶋回り」を発表。
これが空前の大当たりとなり、念願の江戸進出への足がかりを作る。
江戸・東京で生人形師として名声を得て永らくの東京生活にも飽きがきた喜三郎はついに東京から引き上げる決心をする。
明治12年(1879)からは自身最大の自信作「西国三十三ヶ所観音霊験記」を引っ提げ、北陸地方を回って大阪まで巡業。
同15年(1882)には待ちに待った熊本の地で凱旋興行を60日間行い、そのまま熊本へと戻り、
同18年(1885)には熊本本妙寺(熊本市西区花園)大遠忌に明十橋(熊本市中央区新町)の際で「本朝孝子伝」を興行する。
帰郷した喜三郎は晩年まで様々なものを造り続けおり、明治24年(1891)に67歳で亡くなるまで、
その生涯で造り上げた人形は数百体以上に及ぶと言われている。ただ、現在熊本に現存する遺作品はわずか10数点。
もともと見世物で造られた人形であるが故に残されておらず、また作品のほとんどは戦火のため焼失したのである。
熊本に残るものとしては、代表作となる「西国三十三ヶ所観音霊験記」の興行で登場した「谷汲観音像」が松本家の菩提寺である
浄国寺(熊本市北区高平)で観音像として崇められており、
熊本県指定重要文化財でもあるこの観音像は人形とは思えない崇高さをたたえた喜三郎傑作の一つである。
また、高さ110㎝の「聖観世音菩薩像」は喜三郎が熊本へ帰郷後に観音像として寄進するために造られた像で、
来迎院(熊本市西区春日)に現存する。 当時、生人形のリアルさは国外にも名をとどろかせ、
アメリカのスミソニアン博物館で保存状態の良い作品が所蔵されるなど海外でもその人気をうかがい知ることができる。