布田保之助の墓
2016.11.22 お寺
布田保之助と通潤橋
肥後先哲の一人に数えられる布田保之助(ふた やすのすけ)は、
享和元年(1801年)、上益城郡浜町(現山都町)に生まれました。
諱は惟暉(これてる)といい、天保4年(1833年)に父の跡を継いで矢部手永の惣庄屋となります。
在勤29年の業績は大きく、なかでも安政元年(1854年)に完成した通潤橋は難工事を極め、
保之助の苦心は言語に絶するものがあったといわれます。上流下流合わせて百町歩の水田を潤し、
矢部地方の人びとは今日にいたるまでその恩恵を受けています。
その功績により明治6年(1873年)には天杯の下賜、没後の大正5年(1916年)には従五位が贈られ、
さらに昭和11年(1936年)には布田神社が通潤橋近くに建立されました。
また、昭和27年(1952年)には熊本県近代文化功労者として顕彰されています。
明治6年(1873年)4月に73歳で逝去し、大正時代に熊本市・来迎院の万日山墓地にその墓が立てられました。
石造アーチの水路橋として日本最大級の規模を誇る「通潤橋(つうじゅんきょう)」。
江戸時代末期の完成以来、今も現役で周囲の田畑を潤している。
橋の中央部分から、放物線を描きながら勢いよく放水される光景は、
迫力満点な名物として知られている。